2015年

12月

16日

宗教とは、信者の両親のようなものです

誰でも、赤の他人の両親を、自分の親にはできませんよね。もしあなたが鈴木さんなら、山田さんの両親を、自分の両親にできますか?

 

そのように、宗教とは、信者にとっては自分の両親みたいな存在なんです。

 

ということは、自分の両親(宗教)がいいからといって、全く違う親(宗教)を持つ人にも、自分の両親を受け入れて本当の親のように敬えとといっても無駄なことですよね。

 

それなのに、なぜでしょうか。

 

ある宗教に対してとても熱心な信者たちは、自分の親以外を親とする人たち(つまり他宗教者)を潰そうと痛めつけたり、狂ったように他宗教を根絶しようとしています。

 

結果として、彼らの宗教が不合理で不条理だということを強めてしまうのに。

 

気づきの瞑想を習慣にすると、世界の全ての対立を調停することができます。全世界は、(こころの平安のために瞑想をするような)人道主義者によって永続的な平和が続くようになるでしょう。

 

いまの現実世界では、どの宗教の信者でも罪深い行動をしていることがあります。なぜなら、彼らはたとえ信仰心があっても、悟っていないために、いまだ俗物的な考えをもっているからです、つまり、まだ「絶対的な真実」を知らないからです。

 

単なる俗人であり続けると、簡単にMaraやAsuraの悪影響をうけて、それらにしたがって悪い行動をしてしまいます。だから、たくさんの信心深い人達でも、無知のままに宗教潰しをしてしまうのです。

 

強調していえることには、ブッダの教えは、「絶対的な真実」を気付かせてくれる、唯一の完璧な教えであり、まっとうに正しいやり方です。

 

また、「絶対的な真実」に気付くことは、ブッダの教えを聞いて努力をすれば悟れる人、また他者に指導することが出来る人(Neyya: a person who is guidable; the trainable)であれば実現可能です。

 

生命を殺すことは罪深く、生命を救うことは高潔で徳があります。そして、最も神聖な法則は、「カルマの法則」です。

 

悪影響を受けたままの狂信的な信者は、辱めもなく不道徳な罪をおかし続けるでしょう。また、自らの意思で道徳を無視し続ける信者は、その結果として地獄に囚われる身となるでしょう。

 

2015.12.13(Sun) の 長老のFacebook より翻訳し掲載

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